2009年07月04日

受精卵はゆっくりと細胞分裂を繰り返しながら

受精卵はゆっくりと細胞分裂を繰り返しながら卵管を下り、およそ48時間かけて子宮にたどり着く。そして、子宮内膜の一箇所に取り付いて着床の過程を開始し、徐々に潜り込んでいって根を下ろし、排卵から7?11日後に着床状態が完成する。この着床をもって妊娠成立とみなす。着床した受精卵からは、胎盤が形成され始める(なお、胎盤は妊娠中期に入る頃までに徐々に完成する)。

すべての受精卵が着床に成功するわけではなく、染色体に異常がある受精卵など一定の割合は淘汰される。受精卵が着床しなければ妊娠は不成立で、排卵から12?16日後に月経が起こる。(cf.緊急避妊)
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受精卵が何らかの理由で卵管など子宮以外の場所に着床した場合は子宮外妊娠と呼ばれ、放置すると危険な状態になる。産婦人科での緊急な処置が必要となる。
着床した受精卵の初期胎盤から分泌されるhCGという特有のホルモン(これが黄体の寿命を延ばして子宮に着床状態を維持させる)の検出により、女性の尿が少量あれば妊娠の有無は簡単に判定できる。判定薬は薬局で求めることができるが、より確実を期するためには医療機関を受診する。

受精後胎齢と月経後胎齢の二つの数え方がある。前者は発生学で用いられ、後者は臨床産科で用いられる。

2009年06月14日

19世紀から20世紀半ばにかけて生産だけでなく

19世紀から20世紀半ばにかけて、生産だけでなく、消費側にも石油普及をうながす技術革新が続いた。内燃機関での利用である。19世紀末の自動車の商業実用化、20世紀初めの飛行機の発明は、ガソリンエンジンと切り離しては考えられない。船舶も重油を汽缶(ボイラー)の燃料にするようになった。

石油自体は珍しくないが、大量生産できる油田は少なく、発見が困難であったため、石油産地は地理的に偏った。戦車、軍用機、軍艦などの燃料でもあったことから、20世紀半ばから後半にかけて、石油は死活的な戦略資源となった。

20世紀前半には、ベネズエラやインドネシアが石油の輸出地に加わった。

第二次大戦後、石油の新たな用途として、既に戦前に登場した化学繊維やプラスチックが、あらゆる工業製品の素材として利用されるようになった。また、発電所の燃料としても石油が利用された。

戦後しばらくして、中東に大規模な油田が発見された。中東は優れた油田が多いだけでなく、人口が少なく現地消費量が限られているため、今日まで世界最大の石油輸出地域となっている。
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石油の探査には莫大な経費と高い技術が必要となるが、成功時の見返りもまた莫大である。必然的に石油産業では企業の巨大化が進んだ。独自に採掘する技術と資本を持たない国では、巨大資本を持った欧米の少数の石油会社に独占採掘権を売り渡した。これによって石油開発の集中化はさらに進み、石油メジャーと言われる巨大な多国籍企業が誕生した。石油の大量産出によって安価な石油はエネルギー源の主力となり、エネルギー革命と呼ばれるエネルギー源の変化が生まれた。

しかし1970年代に資源ナショナリズムが強まると、石油を国有化する国が相次いだ。1973年から1974年には、第四次中東戦争でアラブ石油輸出国機構がイスラエル支持国への石油輸出を削減し、オイルショックと世界的な不況をもたらした。

他にも北海やメキシコ湾など世界各地で石油が採掘されるようになると、石油の戦略性は低下していった。石油の重要性は低下していないが、供給はかつてほど脆弱ではない。価格変動が景気にどの程度の影響を与えるかという程度になっている。

2009年05月29日

民族の始祖アブラハムが、メソポタミアのウルから

旧約聖書によると、民族の始祖アブラハムが、メソポタミアのウルから部族を引き連れてカナンの地(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされる。彼らは「移住民」という意味のヘブライ人と呼ばれた。この付近で遊牧生活を続けたヘブライ人は、紀元前17世紀頃カナンの地から古代エジプトに集団移住するが、やがてこの地で奴隷とされる。その後、エジプトのヘブライ人指導者モーセが中心となり、約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たす(「出エジプト」)。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)に辿り着き、この地の先住民であったカナン人やペリシテ人(いずれもフェニキア系民族と考えられる)を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。この頃から「イスラエル人」を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。
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紀元前10世紀頃、古代イスラエル人はヤハウェ信仰(ユダヤ教の原型)を国教とする古代イスラエル王国をカナン(パレスチナ)に建国したが、ソロモン王の死後、紀元前930年頃、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した(「ユダヤ」とは元来、ユダ王国のあったパレスチナ南部を指す)。北のイスラエル王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ(失われた十支族)、さらに南のユダ王国は紀元前586年に新バビロニアの侵攻により滅亡、多くの人民が奴隷としてバビロンに囚われた(バビロン捕囚)。彼らはユダ王国の遺民という意味で「ユダヤ人」と呼ばれるようになった。アケメネス朝ペルシアによる新バビロニア王国滅亡に伴い、捕囚のユダヤ人は解放されてエルサレムに帰還し、ペルシア帝国の支配下で自治国として統一イスラエルが復興された。ユダヤ教の教義も、この頃にほぼ確立された。アケメネス朝の滅亡後、古代マケドニア王国、セレウコス朝シリアなどに宗主国が引き継がれ、最終的には古代ローマの属州とされる。この頃にはヘブライ語は既に古典語となり、日常語としては系統の近いアラム語にほぼ取って代わり、のちに国際語としてギリシャ語も浸透した。また、ヘレニズム諸国の各地に商人などとして移住したユダヤ人移民の活動も、この頃に始まる。ローマ支配下の紀元20年頃、パレスチナ北部ナザレの民から出たイエス・キリストが活動した。

紀元66年からローマ帝国に対し反乱を起こすが(ユダヤ戦争)、鎮圧されてユダヤ人による自治は完全に廃止され、厳しい民族的弾圧を受けた。ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名も廃止されて、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来する「パレスチナ」という呼称があえて復活された。以来2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して散らばった。以降ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、各地への定着が進む(「ディアスポラ」)。その後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫(恐らく農耕民の大部分)は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在の「パレスチナ人」になったと考えられる。

2009年04月25日

フラーテス3世

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先王シナトルケスの息子として生まれ、その跡を継いで王となった。彼の治世にはローマが逃走したポントス王国の王ミトリダテス6世を追ってアルメニア王国に侵攻しており、アルメニア王ティグラネス2世はフラーテス3世に援軍を要請した。一方でローマの将軍ルクルスも対アルメニアの同盟を提案しており、フラーテス3世は双方に曖昧な返事を返して日和見を決め込んだ。

この戦争はローマの優勢の内に推移したが、ローマ軍はやがて軍団の進軍反対によって撤退した。するとアルメニア内部ではティグラネス2世の息子ティグラネス(以下小ティグラネス)が反乱を起こした。小ティグラネスはフラーテス3世に支援を求め、これを見たフラーテス3世は失地奪回の好機と判断してアルメニアに侵攻し、アディアバネ地方を征圧した。

しかし、フラーテス3世は紀元前57年に自分の2人の息子、オロデス2世とミトラダテス3世に暗殺された。

フラーテス3世(Phraates III、在位:紀元前70年 - 紀元前57年)は、アルサケス朝パルティアの王。ミトリダテス戦争の際アルメニア王国で起きた反乱に乗じて、ティグラネス2世に奪われていた領土の一部を奪回した。

2009年04月09日

ロックステディの誕生

1966年にリリースされたホープトン・ルイスによる『Take it easy』やアルトン・エリス『Rock steady』などの楽曲を端緒にジャマイカではスカに代わりロックステディが流行する[46][47]。 ロックステディは3拍目にバスドラムが打たれる「ワンドロップ」によるドラム、シンコペーションを重視したメロディアスなベースラインと、甘く滑らかなサウンドを特徴とする[46]。また、ロックステディのテンポはスカよりも遥かにゆったりとしているが、この変化には1966年夏ジャマイカを襲った熱波が影響していると言う説もある[46]。

このロックステディ期にはインプレッションズなどのソウル・ミュージックに影響を受けウェイラーズ、ヘプトーンズ、テクニークス、パラゴンズをはじめとするトリオによるコーラスグループ が流行した[46]。さらにジャマイカ国内の社会状況の悪化の影響からデリック・モーガン『Tougher than tough』やプリンス・バスター『Judge Dread』などの「ルードボーイ(Rude Boy)」を主題とした歌詞が増えて行った。

しかしながらジャマイカ音楽史上におけるロックステディ時代も短命に終わり、流行のわずか2年後1968年にはレゲエに取って代わられることとなる。この変化の背景にはラスタファリズムや公民権運動の高まりがあり、より直接的要因としてはスカ、ロックステディの音作りを支えたミュージシャンであるリン・テイト、リコ・ロドリゲス、ローレル・エイトキン、ジャッキー・ミットゥらの国外移住や、各種エフェクターをはじめとする音響機材の進歩とそれに伴うリー・ペリー、キング・タビーら革新的な新興プロデューサーの台頭があった[48]。

ヴァージョンの発明 [編集]

なお、「パート・ツー・スタイル(Part 2 Style)」などと称される「同一のリディムを複数のシンガー、DJによって使いまわす」という現在も続くレゲエ特有の手法の起源は1967年末、スパニッシュタウンのルディーズ(Ruddy's the Supreme Ruler of Sound)というサウンド・システムが偶然ボーカルを入れ忘れたパラゴンズの『On The Beach』のダブプレートをプレイしたことにある[49]。

以来ジャマイカ産のシングルのB面には「ヴァージョン(Version)」と呼ばれるA面の曲のカラオケを入れることが流行し、一般化した。[50]

レゲエの誕生 [編集]
ロックステディは一世を風靡したが、短命に終わり、1968年にはレゲエに取って代わられることとなる。「レゲエ」という言葉が最初に用いられた曲は同年リリースされたメイタルズの『Do The Reggay』であるが、メント風のリズミカルなギターにブールーやクミナ風のパーカッションを取り入れたリー・ペリー『People Funny Boy』や、電子オルガンとディレイのかかったギターが特徴のラリー・マーシャル『Nanny Goat』などもロックステディからレゲエへの変化が顕著に現れている作品である。[51]

上記のようなギターとオルガンの変化は即ドラムとベースの変化を促した。ワンドロップと呼ばれる3拍目にバスドラムとスネアのリムショットが入るゆったりしたリズムこそロックステディ期と同一[51] だったものの、パーカッシブなベースラインとの対比による特徴的なアンサンブルが完成し、レゲエをそれ以前のジャマイカ音楽と決定的に異ならしめた。[52]

また、歌詞の内容もアビシニアンズ『Satta Masagana』やエチオピアンズ『Everything Crash』をはじめとする黒人としての誇りや社会問題について歌うものが多くなっていった[53]が、その背景には1966年のハイレ・セラシエ1世ジャマイカ訪問や西インド大学講師ウォルター・ロドニーの思想運動の結果高まったラスタファリズム[54] や、同年独立を記念しジャマイカ政府によって創始された「フェスティバル・ソング・コンテスト」[55]による文化的ナショナリズムの高揚[56][57]、さらにジャマイカ労働党による経済政策の失策による景気・治安の悪化[53]、さらにはアメリカ合衆国で高まりを見せつつあった公民権運動やネイション・オブ・イスラムの流行などの様々な要因があった。

DJスタイルの確立 [編集]
1960年代後半より従来サウンドシステムにおいて曲紹介等をするだけであったDJがレコーディングに参加し始める。1970年、DJのU-Royはデューク・リードのプロデュースにより『Wake the Town』、『Rule the Nation』、『Wear You to the Ball』の3曲を立て続けにリリース。従来の曲紹介や合いの手的なトースティングではなく、DJのメッセージを前面に押し出したこの3曲はサウンドシステムの観衆を熱狂させただけでなく、JBCとRJR両ラジオ局チャートのトップ3を独占した。[58] 以後、デニス・アルカポーン、I-Roy、ビッグ・ユーツらDJが続々と登場し、DJはレゲエにおけるスタイルの一つとして定着した

1970年代-ルーツロックレゲエの隆盛
それまで様々な音楽の影響を受けて混沌としていたレゲエは、1970年代に入り、ルーツロックレゲエと呼ばれるスタイルを確立していく。またキング・タビーによるダブの発見、ディスコ音楽からの影響を受けた4つ打ちのリズムであるステッパーズ・リディムの登場などにより、主にクラブミュージックの分野で後世、大きな影響を与えることになる。またキングストンのゲットーを舞台にした映画「ザ・ハーダー・ゼイ・カム」やボブ・マーリーの世界的な大ヒットにより、レゲエはカリブ海の一ポピュラー音楽の枠を超え、世界に広まった。

ダンスホールレゲエの誕生と発展 [編集]

1970年代後半に入っても良質なルーツ・ロック・レゲエの作品が次々と発表された。しかし、ボブ・マーリー・アンド・ザ・ウェイラーズやジミー・クリフ、ブラック・ウフル、スライ・アンド・ロビーらの世界的ヒットは彼らの海外公演を増やすと同時に、ジャマイカ国内での活動を減らす結果に繋がった。[59]その音楽的空白を埋めるように登場したのが1978年に結成されたルーツ・ラディックス・バンドであり、同年ユーツ・プロモーションを立ち上げ、主宰したシンガーのシュガー・マイノットであり、1980年ヴォルケイノ・レーベルを設立したヘンリー・ジュンジョ・ローズらダンスホール期を代表する新興プロデューサー達であった。

また、人民国家党の失政により政治、経済がさらに混乱すると、ジャマイカではルーツ・ロック・レゲエの硬派なメッセージへの失望感が広がった。[60]さらに1981年5月にはボブ・マーリーが死去。そうした状況はレゲエからラスタ色を薄れさせ、スラックネスと呼ばれる下ねたを中心とした歌詞やガントークと呼ばれる自分の銃や力を強調する歌詞などを流行させた。ダンスホールレゲエの誕生である。[61]

コンピュータライズド革命 [編集]
1984年、プリンス・ジャズボのプロデュースによりリリースされたホレス・ファーガソンのシングル『Sensi Addict』からレゲエのデジタル化が始まる。[61]1985年にジャミーズからリリースされたウェイン・スミスの『Under Mi Sleng Teng』はカシオトーンMT-40のみで製作されたにも関わらず大きなヒットとなった。[62]キング・タビーもすぐに打ち込みの技法を取り入れ『Tempo』リディムを制作しジャミーズに対抗した。以後、ダンスホールレゲエは急速にドラムマシンやシンセサイザーを取り入れ、電子音楽化してゆく。この音楽的革新は「コンピューターライズド」と呼ばれた。

その後も元ルーツ・ラディックスのスティーリィ&クリーヴィや、ボビー・デジタル・ディクソンらがコンピュータライズドのトラックを大量生産し、ヒットを飛ばし続けた。

1990年代以降-ダンスホールレゲエ全盛期へ [編集]
1990年代中ごろ、ジャマイカではルーツアンドカルチャーの標語の下、ガーネット・シルク等が中心となりラスタ復興の兆しが現れる。またテクノやエレクトロニカのアーティストのよる新たなレゲエの解釈やジャマイカのダンスホールとイギリスのニュールーツとの交流、ヒップホップとのクロスオーバーなど新たな動きが現れている。

トウワ マリンシャ パスネ マイル 琴の波 日本検索 ジュピター ライム ティーカ トラック パワステ カラー ミューズ レイオフ テレホ レイヤ チャイナ ダリー バッケン セル ハイスク チャリス おおみ ウバイド ドレープ ぎおんうお かぼちゃ レコアダー フィール もちは チキン ブーバル つれあい マスカレ りざや ルマガ 伊予緋 すぺあみ スケルト 十二単 ストライプ ヒラタケ 仮面 エゴイス ゼノタイ クロスセル ドアマン パンダ アケミス サラサ


2009年03月25日

台車は京阪において初めて導入

台車は京阪において初めて導入された車体直結式(ダイレクトマウント)の空気バネ式台車が全車に採用されている。

電動車が住友金属工業(以下、住友金属)製FS-381、制御車の3500形が汽車製造会社(以下、汽車会社)→川崎重工業製KS-132/132Aを装着しており、中間T車の3600形は将来の電動車化を考慮して電動車のFS-381から主電動機支持架などを省略したFS-381Bが装着された。

FS-381は、汽車会社が開発したエコノミカルトラックと呼ばれる廉価な1自由度系エアサス台車に対抗すべく住友金属が開発したFS-337系1自由度エアサス台車[18]の系譜に連なる側梁緩衝ゴム式台車の一種であり、軸箱支持についてはその荷重を直上のコイルバネに負担させる構造[19]であるが、通常のペデスタル式軸箱支持構造と異なり左右がゴムパッドにより固定されていて、金属部品による摺動面を持たないという特徴がある。

これに対し、KS-132/132Aは汽車会社がスイス・シンドラー社からライセンスを得て開発したシンドラー式円筒案内台車の最終世代で、これは1900系に採用されたKS-70の枕ばね部を揺れ枕吊り方式からダイレクトマウント方式に変更したものである。

本系列の台車は、いずれもダイレクトマウント化の実施によって1900系に比べて乗り心地が改善されるものと期待された。ところが、FS-381については曲線主体の京阪の軌道条件に良く適合し、走行特性は良好であったものの、構造上軸バネを柔らかく設定できないためにその乗り心地は今一つ不評で、「乗り心地だけは1900系[20]の方が良かった」との声も上がる状況であった。そのためか、本系列の淘汰時にKS-132A台車10両分が枕バネ付近をダイレクトマウントからインダイレクトマウントに大改造させた上でKW-79として2600系30番代[21]に転用されたが、本系列で多数を占めていたFS-381系は全数廃却されている。

シェブロン式台車の試用 [編集]
試行錯誤が繰り返された感の強かった1900系までと比較して、台車について動きの少ない本系列であるが、それでも試作台車の試用が一度行われている。

1977年に川崎重工業が試作したKW-24・25の2種の新型台車がそれである。

これら2形式は、従来と同じダイレクトマウント式を採用するKW-24と、新開発のボルスタレス式を採用するKW-25で枕ばね部の設計が違えてある以外は基本的に共通設計で、共に新開発の積層ゴムによるシェブロン式と称する軸箱支持機構を採用しており、新設計の軸箱支持機構の評価試験と、新開発の枕ばね部の設計と従来設計との比較試験を同時に行う目的で試作されたものであった。

もっともこのシェブロン式軸箱支持機構は、構造は簡素であるが曲線が多く偏倚の大きい京阪線での使用には適さなかったらしく京阪では本格採用に至らず[22]、ボルスタレス台車も曲線通過時の性能が不満足であったのか、京阪では以後現在に至るまで一度も採用されずに終わっている。

ブレーキ [編集]
1971年竣工の第1次車については、1900系との混結を考慮して同系と共通のAMAR-LD自動空気ブレーキが採用された。これに対し、第2次車以降はより応答性が高く操作性の良い全電気指令式のHRD-1D(制御・付随車はHRD-1)に変更され、第1次車についても後にHRD-1Dへ換装して仕様統一が図られている。

なお、現存する1編成は1995年12月のダブルデッカー車組み込み時に8000系と共通の回生ブレーキ優先・全電気指令式ブレーキであるHRDA-1に再度変更されている。

連結器 [編集]
上述の通り、第1次車の段階では1900系との混結の可能性があった[23]ため、1700系以来の日本製鋼所製NCB-II小型密着自動連結器が先頭車運転台側に搭載された[24]が、特急運用への本系列定数充足に際して早朝と深夜の3連運用時の増・解結作業の簡略化を目的として第3次車では電気連結器の付いた回り子式(柴田式)密着連結器が採用された。これに合わせて第1・2次車も連結器の交換が実施された。

これに対し、運転中に編成を解かれる可能性のない中間車両と運転台付き車両の連結面側については、終始一貫して半固定式の棒連結器が採用されている。

その後、鴨東線開業を前提とした三条?七条間の地下化に伴う1987年のダイヤ改正で早朝と深夜の3連分割運用が廃止されたことから、再度運転台側連結器がNCB-II小型密着自動連結器に再度変更[25]され、これが2009年現在までそのまま使用され続けている。

なお、本系列には2200系以降の新造通勤車と同様にATS車上子の保護の目的で前面床下にスカートが装着されているが、これは上記連結器変更で物理的な干渉が生じたため、その都度形状変更が施されている。

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2009年03月09日

ドヴォルザークはピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲

ドヴォルザークはピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲を1曲ずつ完成させている。中でもチェロ協奏曲は「ドヴォルザークのコンチェルト」を短縮した「ドボコン」の愛称で親しまれる名曲で、古今のチェロ協奏曲中最も親しまれている作品である。なお、習作時代のイ長調のチェロ協奏曲も遺されているが、これは未完成な作品で演奏される機会はほとんどない。

ピアノ協奏曲 ト短調 作品33、B.63
1876年の作品。1883年3月24日、プラハにて初演。
ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品53、B.108
ドヴォルザークの協奏曲といえば、チェロ協奏曲があまりに有名であるためその影は薄いものの、このヴァイオリン協奏曲は比較的演奏機会の多い作品である。この作品は、当時の大ヴァイオリニストでブラームスの友人としても有名なヨーゼフ・ヨアヒムの勧めにより作曲された。1879年7月から9月にかけて作曲を行い、ヨアヒムの助言を容れて修正を行った上で1880年5月に完成、ヨアヒムに献呈された。しかし、ヨアヒムが公開の場でこの作品を演奏することはなく、1882年夏にさらなる改訂を施され、1883年10月14日にドヴォルザークの熱狂的な支持者であったフランティシェク・オンドルシーチェックの独奏によりプラハで初演された。
チェロ協奏曲 ロ短調 作品104、B.191
1894-95年の作品。1895年6月に改訂された後、1896年3月19日、ロンドンで初演。
森の静けさ (Klid) 作品68-5、B.182
原曲は1883年から1884年に書かれたピアノ連弾のための作品。1891年にチェロとピアノのための室内楽作品に編曲され、さらに1893年にチェロと管弦楽のための作品に編曲された。

室内楽曲

六重奏曲
弦楽六重奏曲 イ長調 作品48、B.80
作曲1878年、初演1879年ベルリン、 ヴァイオリン2・ヴィオラ2・チェロ2

五重奏曲
ピアノ五重奏曲第1番 イ長調 B.28
作曲1872年、初演1872年プラハ
ピアノ五重奏曲第2番 イ長調 作品81、B.155
1887年、ヴィソカーの別荘で作曲された。スラヴ民謡風の旋律を豊かな和声で彩る美しい作品。一見古典的な4楽章構成だが、第1楽章や終楽章のソナタ形式には独自の工夫が見られ、作曲者の揺るぎない自信が感じられる作品となっている。
1888年1月6日にプラハの市民クラブ会館で初演された。
弦楽五重奏曲第1番 イ短調 作品1、B.7
作曲1861年、初演1921年プラハ、 ヴァイオリン2・ヴィオラ2・チェロ1
弦楽五重奏曲第2番 ト長調 作品77、B.49
作曲1875年、初演1876年プラハ、 ヴァイオリン2・ヴィオラ1・チェロ1・コントラバス1
弦楽五重奏曲第3番 変ホ長調 作品97、B.180
1893年夏期休暇で訪れていたアイオワ州スピルヴィルで作曲された。有名な弦楽四重奏曲『アメリカ』の完成3日後の6月26日に着手された作品で、「アメリカ」五重奏曲と呼ばれることもある。同年8月1日に完成し、翌年の1月にニューヨークで初演された。
編成は弦楽四重奏にヴィオラを加えたもの。伸びやかな楽想が印象的な作品である。

四重奏曲
ピアノ四重奏曲第1番 ニ長調 作品23、B.53
作曲1875年、初演1880年ベルリン
ピアノ四重奏曲第2番 変ホ長調 作品87、B.162
作曲1889年、初演1890年プラハ
パガテル 作品47,B.79
作曲1878年、初演1879年プラハ、ヴァイオリン2・チェロ1・ハルモニウム(またはピアノ)1
ドヴォルザークには全部で14曲の弦楽四重奏曲があるが、現在よく耳にするのは第8番以降の7曲である。これ以前の作品には、シューベルト、ワーグナー、ベートーヴェン、スメタナといった先人の強い影響が感じられ、習作の域を脱しきれないもどかしさがつきまとうが、第8番以降の作品にはドヴォルザーク自身の強い個性と意志が込められている。

弦楽四重奏曲第1番 イ長調 B.8
作曲1862年、初演1862年プラハ
弦楽四重奏曲第2番 変ロ長調 B.17
作曲1870年?
弦楽四重奏曲第3番 ニ長調 B.18
作曲1870年?
弦楽四重奏曲第4番 ホ短調 B.19
作曲1870年?
弦楽四重奏曲第5番 ヘ短調 作品9、B.37
作曲1873年、初演1930年プラハ
弦楽四重奏曲第6番 イ短調 作品12、B.40
作曲1873年
弦楽四重奏曲第7番 イ短調 作品16、B.45
作曲1874年、初演1874年プラハ。L.プロハスカに献呈
弦楽四重奏曲第8番 ホ長調 作品80、B.57
1876年1月から2月にかけて作曲された。ドヴォルザークはこの前年の9月に長女を亡くしており、その深い悲しみの影がこの作品に独特な翳りを与えている。初演は1889年4月4日にロンドンで行われた演奏会であったろうと推測されている。
弦楽四重奏曲第9番 ニ短調 作品34、B.75
1877年12月の作品。出版社ジムロックを紹介してくれた恩人ブラームスに献呈するために作曲された作品であり、引き締まった構成にブラームスの作品を研究した後がうかがわれる。また、スラブ民謡の要素がそこここに見られる点も興味深い。1882年2月27日にフェルディナント・ラハナーらによって演奏されたのが初演であったと推測される。
弦楽四重奏曲10番 変ホ長調 作品51、B.92
当時有名な弦楽四重奏団であったフローレンス四重奏団の主催者ヤン・ベッカーからの「スラヴ的な弦楽四重奏曲」を書いてほしいとの依頼に応えて1878年12月から79年3月に作曲された作品。注文通りスラヴ情緒が横溢する作品である。1879年7月29日ベルリンのヨアヒム邸で開かれた私的な演奏会で初演された。
弦楽四重奏曲第11番 ハ長調 作品61、B.121
ヘルメスベルガー四重奏団からの依頼に応えて作曲された作品で、1881年11月10日に完成している。初演は、ヘルメスベルガー四重奏団がウィーンで行う予定であったが、リング劇場の火事によりキャンセルされ、1882年11月にベルリンでヨアヒム四重奏団によって行われた。ウィーンでの演奏を念頭に置いて作曲されたため、ボヘミア的な要素は抑えられ、ドヴォルザークらしさという点では一歩引いた作品となっている。
弦楽四重奏曲第12番 ヘ長調 作品96、B.179 『アメリカ』 (The American)
1893年の作品。1894年1月1日ボストンにて初演。
弦楽四重奏曲第13番 ト長調 作品106、B.192
1895年にアメリカから帰国したドヴォルザークが約半年の休養を経て書かれた作品で、1895年11月から12月にかけて作曲された。初演は1896年10月9日、プラハでチェコ弦楽四重奏団により行われた。故郷に帰ったくつろいだ感覚に満ちた作品で音楽評論家のクラップハムはこの作品の前半2つの楽章について「彼の室内楽曲の中で最もすばらしい」と賞賛している。
弦楽四重奏曲第14番 変イ長調 作品105、B.193
アメリカ滞在中に着手され、チェコに帰国した後1895年12月30日に完成した。第13番同様、祖国への愛情が凝縮された作品である。
弦楽四重奏のための『糸杉』 (Cypřiše) B.152
歌曲集『糸杉』B.11から12曲を1887年に編曲したもの。
オーチャド ライカ フリー カクタス とかく の波 くつわむし ウォーム 聖護院かぶ デッドラ ジッダ プチ フェイク カプジ ビドム ニウム ぽぽー タンメン チエンマ かなぎ オファー アパシー スコープ ネバー ウーマンレディー イースター トーキー シュリ なっぷる 愛燦燦 マース マズルカ オシレ ラミンゴ バンス チーズバ スナイ サラセニ グリーン 夜長鳥 アバウト プレース バイアス デカダンス フラクタル シーケ イヌビユ パートナ 新秋柿 ノッキング

三重奏曲
ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 作品21、B.51
作曲1875年、初演1877年プラハ
ピアノ三重奏曲第2番 変ロ長調 作品26、B.56
作曲1876年、初演1879年トゥルノフ
ピアノ三重奏曲第3番 ヘ短調 作品65、B.130
1883年2月から3月にかけて作曲され、同年秋に改訂されている。初演は1883年10月27日、ボヘミアの町ムラダー・ボレスラフにて、作曲者のピアノ、フェルディナント・ラハナーのヴァイオリン、アロイス・ネルダのチェロで行われた。ハンスリックにウィーンへ来るよう誘われ、オペラ作曲家としての栄光とチェコへの愛国心の葛藤に悩まされた時期の作品で、比較的荒々しい表現が目立つ作品となっている。
ピアノ三重奏曲第4番 ホ短調 作品90、B.166 「ドゥムキー」
1890年11月から翌91年の2月にかけての作品で、1891年4月21日に作曲者のピアノ、ラハナーのヴァイオリン、ハヌシュ・ヴィハンのチェロで初演された。「ドゥムキー」とはウクライナの民謡形式の一つ「ドゥムカ」の複数形だが、チェコ語で同じ「ドゥムカ」という言葉があり、「回想」あるいは「瞑想」を意味する。ドヴォルザークの作品が民謡としての「ドゥムカ」の形式を必ずしも踏襲していないことから、後者の意味で使っているという説もあるが、定かではない。この作品は6つの楽章からなるが、ソナタ形式の楽章が一つもなく、調性の統一も見られない上に、全曲を統一する主題や動機もないという、多楽章作品としては特異な形式の作品である。
弦楽三重奏曲 ハ長調 作品74、B.148
作曲年1887年、初演1887年プラハ、ヴァイオリン2・ヴィオラ1
ミニアチュア (Drobnosti) 作品75a, B. 149
作曲年1887年、初演1938年プラハ、ヴァイオリン2・ヴィオラ1
ガヴォット (Gavota) ト短調 B.164
作曲1890年、3本のヴァイオリンのための作品。

2009年02月21日

超対称性粒子

超対称性粒子(ちょうたいしょうせいりゅうし、Supersymmetric particle、SUSY粒子) は、超対称性理論によって存在が予想されている、既存の粒子に対し、スピンが1/2ずれただけで、電荷などは等しい素粒子。スピンが1/2ずれているため、既存のフェルミオンに対し未知のボソン、既存のボソンに対し未知のフェルミオンが予想されている。ボソンとフェルミオンの対応する相方を超対称性パートナー (supersynmetric partner) という。

超対称性粒子の中で最も軽く電気的に中性なものはLSP (Lightest Supersymmetric Particle) と呼ばれ、直接観測できず安定に存在できるため、宇宙論でいうダークマターの候補に挙げられている。超対称性ではフェルミ粒子とボース粒子の間に対応がある。また2008年より稼働したCERNの加速器LHCで発見が期待されているものである。
ハンド パーム ドシア バンス ソルト オース サイバ レスト ソナー プラハ デイする 未来の喜び 足跡 せきりん シーツ 金乃竹 ブルーロー ダンエス サイエン パネル 風の華 ファイア レーション フレット リファレンス マルチーズ キールサエ ヤグルマ草 平核無柿 バイバイ オースチン はそく トウヒ ラスト フレーク ヒストリー デコル かおう 百の城 イヤー ケイブ ならたけ ワインリス ユーロス 沖の石 クイック たてじま なみがさね 汽車ポッポ モノローグ

命名法
ボソンに対するフェルミオンの超対称性パートナーは、元のボース粒子の名の語尾を-inoとする。-inoは「小さい」という意味。

フェルミオンに対するボソンの超対称性パートナーは、元のフェルミ粒子の名の語頭にs-をつける。s-はスカラーの略で、フェルミオンに対する超対称性粒子はスピンが0のスカラー粒子であることを表す。略さず「スカラー」を頭につけることもある。


[編集] 主な超対称性粒子
ボシーノ (bosino) ⇔ (通常の)ボソン
ゲージーノ (gaugino) ⇔ ゲージ粒子
フォティーノ (photino) ⇔ 光子(フォトン)
ウィーノ (wino) ⇔ Wボソン
ジーノ (zino) ⇔ Zボソン
グルイーノ (gluino) ⇔ グルーオン
グラヴィティーノ (gravitino) ⇔ 重力子(グラヴィトン)
ヒグシーノ (higgsino) ⇔ ヒッグス粒子
中性ヒグシーノ ⇔ 中性ヒッグス粒子
荷電ヒグシーノ ⇔ 荷電ヒッグス粒子
混合状態
ニュートラリーノ (neutralino) = フォティーノ + ジーノ + 中性ヒグシーノ
チャージーノ (chargino) = ウィーノ + 荷電ヒグシーノ
アクシーノ (axino) ⇔ アクシオン
スフェルミオン (sfermion) ⇔ (通常の)フェルミオン
スクォーク (squark) ⇔ クォーク
sdown、sup、sstrange、scharm、sbottom、stop
スレプトン (slepton) ⇔ レプトン
セレクトロン (selectron) ⇔ 電子(エレクトロン)
スミューオン (smuon) ⇔ ミューオン
スタウ (stau) ⇔ タウオン
スニュートリノ (sneutrino) ⇔ ニュートリノ
e-sneutrino、μ-sneutrino、τ

2009年02月05日

Mr.ビッグ (龍虎の拳)

サウスタウンを牛耳る「ある組織」のボスで、『龍虎の拳』(以下初代『龍虎』と表記)におけるユリ・サカザキ誘拐事件の首謀者。その目的はユリの父である無敵の格闘家のタクマ・サカザキを手中にすることであり、これは『龍虎の拳2』(以下『龍虎2』と表記)のオープニングデモで明らかになっている。後にユリが自分のプロフィールで嫌いな物に「タコ」を挙げているのは、この誘拐事件が原因だとされている(タコ=スキンヘッド=Mr.ビッグと認識してしまうため)。
キャリ プラス 百目柿 コロッケ ピロー ビリア ブルース プレイパ ライブ 二輪草 タイム ミルク とまぴ こげちゃ だいせん おおば ダブル ネービ ヨハネ ほろば リル アイアール カレンシー がいせい ハイピッ にがうり トラップ フィス マロニ 紅い橋 プロイ みぎわ フォト モールド パンク メーク トリオ カバラ ライチー ハラム ギキョウ ナビリネン げきけい ブタノール スワン ナレッジ コクシ ディン トルコ マグレブ

元は特殊部隊の人間だったが、作戦に違反して墜落してしまったジョン・クローリーを助けたことで特殊部隊を追いやられた。戦闘においては特殊部隊時代に培ったとされる、2本の短い棍を使った棒術で戦う。本名が「ジェームス」であること以外の経歴については謎が多い。

組織内で若くして頭角を現しつつあるギース・ハワードとは同僚であり、敵対関係でもある。『龍虎2』では大会の主催者であるギースの面目を潰すため、参加者を手当たり次第に闇討ちしていく。ゲーム中である条件を満たすと隠しボスとしてギースが現れる。その際の対話デモにて、ギースから「サウスタウンは自分の街」「お前には消えてもらう」という事実上の宣戦布告をされる。ビッグはギースの支配者ぶりを嘲笑うも、彼の思い通りにさせる訳にはいかないため、「楽にしてやる」と言い放って戦いに突入する。

『KOF'96』(以下『'96』と表記)ではギース、ヴォルフガング・クラウザーとともに「ボスチーム」として出場。組織、および組織内での自分の権力を拡大するため、ギースらを利用しようとするが、結局はオロチの力を探らんとするギースに利用されてしまう。その借りを返すべくゲーニッツとの戦いの後に部下にギースを狙撃させるも、銃弾はビリー・カーンの三節棍により防がれている。登場デモではセクシーな女性を侍らせ、その女性の1人が発する“彼はすごいのよ”という台詞は有名だが、どこかどうすごいのかが不明なため、ファンの間では語り種となっている。なお、『'96』でのビッグとギースの対面は、『餓狼伝説』・『龍虎の拳』の時間の流れでは、本来はあり得ないものである(ギースは『餓狼伝説』シリーズでの姿で登場するが、『餓狼伝説』シリーズは『龍虎2』から10年が経過した世界のため。『'96』での年齢設定も、ギースのほうがビッグよりも8歳年上と設定されている)。時系列がパラレルである『KOF』だからこそ可能な「ドリームチーム」である。

アニメ『バトルスピリッツ 龍虎の拳』でもユリ誘拐事件の首謀者だが、本作ではタクマ・サカザキが絡んでこないため、その目的は「シリウスの瞳」と呼ばれる宝石を手に入れることに変わっている。

ゲーム上の特徴
初代『龍虎』にて、最終ボスであるMr.カラテの前に戦う中ボスとして初登場。2本の棍を携えて戦う。判定が強い通常技や、高速で突っ込んでくる突進技「クロスダイビング」でプレイヤーに襲い掛かる。本作では、ジャンプができないという致命的な欠点があった。対戦で使用するには、彼を倒した時点まで進めたメモリーカードが必要となる。対戦では、キャラクター性能は少し抑えられている(Mr.カラテも同様)。

次作の『龍虎2』では最初から使用可能であり、ジャンプもできるようになった。飛び道具の「グランドブラスター」の発生が早くなり、飛び道具の撃ち合いでも負けにくくなった。新技もいくつか追加されており、その内の1つである「ドラムショット」は、通常技をキャンセルして連続技に組み込むと効果的。前方へのダッシュは、リー・パイロンと同じく低姿勢で素早く接近するもので、相手に接近できたら投げに持ち込む戦法も取ることができる。CPU戦では通常の場合は最後の敵として登場するが、一定条件を満たしてギースを登場させると初代『龍虎』と同様に中ボスに格下げとなる。

『'96』では、通常技が一新され、従来の必殺技の性能が若干変更され、新技も追加された。技のリーチが全体的に長くなっている。「グランドブラスター」は前方へ飛ばなくなっているが、攻撃判定の強い打撃技として使うことができる。「カリフォルニアロマンス」は、威力によって対空迎撃に使ったり、連続技に組み込んだりと用途が異なる。

『ネオジオバトルコロシアム』(以下『NBC』と表記)ではそれまでの地味な強さを覆し、全キャラ中で最強と名高い地位にある。

『KOF XI』の家庭用では隠しキャラクターとして登場。『NBC』をベースにしているが、ゲームシステムの違いもあってかゲームバランスを崩すほどの強さではない。

技の解説
通常技
龍虎の拳2

操作 立ち(近距離) 立ち(遠距離) しゃがみ 垂直ジャンプ 前方ジャンプ 後方ジャンプ
弱パンチ 中段棒突き 下段棒突き 跳び下段突き
強パンチ マシンガンスピア 棒足払い ツインウェーブショット
弱キック 中段棒殴り 下段棒突き 跳び下段
強キック ネックショット ミドルスイングショット 棒足払い ツインウェーブショット
アッパー 棒振り上げ
ローキック クロスアンダースピア
投げ ハイリフトスルー

投げ技
ハイリフトスルー
2本の棒で相手を掴んで、後方に投げ飛ばす。『KOF』シリーズでの通常投げの1つでもある。
ミリオンダラーバスター
『KOF』シリーズでの通常投げ。棒で相手を掴んで持ち上げ、そのまま地面に叩きつける。ダウン回避不可。

必殺技
グランドブラスター
棍を振るい、地を這う衝撃波を起こす。『KOF』や『NBC』では端まで飛ばない設定。『龍虎の拳』シリーズでは初代『龍虎』と『龍虎2』ではモーションが全く違い、コマンドも初代『龍虎』と『龍虎2』では全く違っていた。『KOF』以降はコマンドもモーションも『'96』以降のものに落ち着いた。
クロスダイビング
棍を構えたまま地を蹴り、低空を保ったまま高速で突進する。『'96』にてコマンドが変更され、モーションも横回転しながらの突進技に変更された。
ローリングスピア
現時点では初代『龍虎』のみの技。素早く前転しつつ、相手の目の前に近づいた瞬間に2本の棒で同時に突きを放つ中段突進技の一種。メガドライブ版の初代『龍虎』でのみ使用可能。ネオジオ版でも似たような必殺技をCPUのビッグが出してくるが、対人戦では何故か使用不可。
スピニングランサー
『龍虎2』にて追加された。回転しながら棍で攻撃、最後は棍を相手に伸ばして突く。『'96』にてコマンドが変更され、モーションも独楽のように回転しながら体当たりする技に変更された。『NBC』ではコマンドがボタン二つ同時押しになり、出すのが簡単になっている。『KOF'98 ULTIMATE MATCH』(以下『'98 UM』と表記)では相手の飛び道具を反射する性能が追加され、また最後に棍で真横に突く動作が復活している。
ドラムショット
『龍虎2』にて追加された。一定距離を突進して、ドラムを叩く様に相手を2本の棒で連続で叩きつける。叩き終えるとポーズを決めるが、ヒット・ガードを問わず必ずポーズを取るため、大きな隙を晒す。『'98 UM』では相手を掴んでから以下の「クレイジードラム」の動作で乱打する投げ技として再び使用されることになった。
クレイジードラム
『'96』から登場。2本の棍で相手を乱打する。プレイステーション2版の『KOF2000』でのストライカー動作もこの技。
カリフォルニアロマンス
『'96』から登場。飛び上がりながら棍を振るうビッグ初の対空技。弱はガードポイントがあるほかに判定も強いため、対空や反撃に使用可能。強は突進しながら連続で攻撃しつつ飛び上がるもので、主に連続技に組み込む。

超必殺技
ライトニングクロス
SFC版初代『龍虎』オリジナルの超必殺技。棍に気を纏わせた状態で「クロスダイビング」を放つ。
ブラスターウェーブ
『龍虎2』より登場。前方で棍を交差させ、そこにリーチの長い稲妻のような気柱を発生させる。なお、超必殺技の飛び道具であるにも関わらず、リョウ・サカザキの「空中虎煌拳」で相殺されてしまう。『'96』以降は、リーチは短いが多段ヒットする複数の電撃に変更された。『'96』ではグラフィックを大幅に描き換えたり、システムを変えたりしたために時間が無かったのか、超必殺技がこの技だけしかなかった。
ライジングスピア
『龍虎2』にて隠し必殺技として登場。相手を棍で空中に放り上げてから、連続で何度も突く打撃系のコマンド投げ。『'96』ではボイスデータが存在してはいるものの、開発の内容や期間の都合で入れられなかったのではと言われている。後に『NBC』にて復活し、最後に映画『サタデー・ナイト・フィーバー』を思わせるポーズで棍を突き込む(PS2版『XI』でも同様)。『'98 UM』では『'96』の時の没ボイスデータを使用して復活を果たし、MAX版は最後に「ミリオンダラーバスター」の動作で相手を地面に叩き付ける。
ドラムショットタイフーン
『NBC』にて追加された技。棍での打撃を交えた乱舞技。

2009年01月21日

シク教(-きょう、パンジャーブ語:?????、英語:Sikhism)

シク教(-きょう、パンジャーブ語:?????、英語:Sikhism)は、16世紀にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。スィク教、スィック教、あるいはシーク教とも呼ぶ。シク(スィク)とはサンスクリット語の「シシュヤ」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは師匠という意味である)。

総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。教典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1430ページの書物であり、英語に翻訳されインターネットでも公開されている。
恋人の色 ビーチ オーデコ ダチョウ 夢の恋路 ドゥーム プライマー ばんどう エブロ 黄昏ワル てっぷ フォロ フィラ チジン やはぎ ファイ ルソー フレンド アンラ イーシ フォークタ すずりいし らいち 夢待人 四季彩 日本の島々 真珠 デレヨイ ツーリスト オブソリ トーキ きがん サガ スクアレ スイムタル オーバル タージ ヒュッテ ミニホ ラーキー オービス スカフェ タイム イメージ ロボール 愛の ロンドン スターム ライブラリー マゼラ


ヒンドゥー教と同様に輪廻転生を肯定しているが、イスラーム教の影響でカーストを否定している。この見解には宗教改革者カビールの影響とイスラーム神秘主義であるスーフィズムの影響が考えられる。カビールの生没年ははっきりしないが、1440年誕生1518年死亡説をとるなら、カビール及びナーナクの両人の接触はあったとも考えられる。

思想の系譜としては、初めにラーマーヌジャがいて、その孫弟子にラーマーナンダが、その弟子にカビールがおり、その影響を受けたのがグル・ナーナクということになる。

神は一つであるとして、唯一神を標榜している。神には色々な呼び名があり、それぞれの宗教によって表現のされ方の違いはあるが諸宗教の本質は一つであるとし、教義の上では他宗教を排除することはない。ただし、それは他宗教への批判を差し控えるというような種類のものではなく、ナーナクは、ヒンドゥー・イスラム両教の形骸化、形式化した面については激しく批判をしている。その一方で、「聖典に帰れ」と主張しており、宗教家によって形づくられた宗教から立ち返るべきだとの信念を持っていた。

儀式、偶像崇拝、苦行、ヨーガ(ハタ・ヨーガの意味)、カースト、出家を否定し、世俗の職業に就いてそれに真摯に励むことを重んじる。戒律は開祖のときはなかったが、第10代グル・ゴーヴィンド・シングによってタバコ・アルコール飲料・麻薬が禁止された。肉食に関しては自由で、食べる人も食べない人もいる。

離婚については、好ましいことではないがやむをえない場合は仕方がないとの見解をとる。

宗派
カールサー派
シク教の主流派でターバンを巻いてひげをはやしているのはこの宗派である。次の5つの事柄を守る。1.長髪、2.ひざの上までのパンツ、3.腕に付ける鉄のブレスレット、4.短刀(現在は短刀を持つことは禁止されている)、5.くし
アカーリー派
政治色が強く政党(アカリ・ダル)を持っている。この派もターバンを巻く。
ニランカーリー派
ダヤル・ダースが提唱した派で、第10代グル・ゴーヴィンド・シングの教えに従わず開祖の教えに戻れと主張した。
ウダーシー派
グル・ナーナクの息子が第2代グルになれなかったので分離して新しい派を作った。
過激派
パンジャーブを独立させてカリスタンという国を作ろうとして、武力闘争をしたがパンジャーブ警察によって根絶された。

習俗
カールサー派のシク教徒の男性は、髪の毛と髭を切らず、頭にターバンを着用するのが一般的なので、髭のあるターバンをつけたインド人男性はシク教徒である。ターバンの着用はヒンドゥー教徒などでは一般的でないにもかかわらず、世界的にはインド人男性の一般的イメージとなっている(理由は後述)。女性も髪を切らないのでロングヘアーにしている。現在ではそのようなことをするカールサー派は減り半数を割ったとも言われ、それに代わってそのようなことをしない(カールサー派に属さない)サヒジダリーと呼ばれる人が増えている。

男性はシング(ライオン)、女性はカウル(王女)という名前を持つ場合が多い。

寺院
シク教の寺院はグルドワーラーと呼ばれ、小規模な寺院はダルバールと呼ばれる。

シク教寺院に入るには靴を脱いで頭の上にハンカチをのせて髪の毛を隠さなければならない。これはターバンを巻くカールサー派への配慮と思われる。グル・グラント・サーヒブを歌い、1時間程の礼拝の後にカラーパルシャードと呼ばれる砂糖菓子がふるまわれる。また、神前の供物を恭しく食べるが、これは日本で神社・仏壇の供えものを有難く頂戴するのと同種の習慣である。さらにランガルと呼ばれる食事が皆に振舞われる。これは無料で、内容はインド料理(チャパティー、パコラ〈天ぷら様の揚げ物〉、ヨーグルト、スープ)である。これはヒンドゥー教徒がカーストが違う者と食事を共にしないことに対する批判である。

日本にあるシク教寺院としては、兵庫県神戸市中央区野崎通2-7にグル・ナーナク・ダルバールがある。礼拝は毎週日曜日の11時半頃より行われ、1時頃に昼食が終わる。

教徒
ヒンドゥー教が生来から帰依するものであるのに対して、シク教は改宗宗教であることから、異教徒やインド人以外に対しても布教が行われる。アメリカにも教徒がいるが、これは3HOという団体がアメリカで布教しているためと思われる。

教徒はインド全域に分布しているが、特に総本山ハリマンディルの所在地であるパンジャーブ地方に多い。信徒数はインド国内で約2000万人、日本には約1000人ほどが居住していると思われる。シク教成立時より裕福で教養があり教育水準の高い層の帰依が多かったことから、イギリス統治時代のインドでは官吏や軍人として登用されるなど社会的に活躍する人材を多く輩出し、職務等で海外に渡航したインド人にターバンを巻いたシク教徒を多く見かける。それがターバンの着用はインド人の習俗であるとの世界的なイメージにつながった。インドでは少数派でありながら社会的に影響力のある宗教集団である。ムガル帝国時代に武器を持って戦っていたためともされるが、技術的な事項に強い者が多く、インドのタクシー運転手にはシク教徒が多い。

俗説
インドにはシク教徒に対する俗説やジョークの類が数多く存在する。 シク教徒に対するジョーク集まで売られているほどである。

ジャガイモとシク教徒は世界中どこにでもある(いる)。
シク教徒は昼の十二時を過ぎるとアンテナが働かなくなる。
シク教が喫煙を禁じるのは、煙草に火をつける時に長く伸ばした髭に燃え移る危険性があるから。
など

歴代グル
第1代 グル・ナーナク(1469年 - 1539年)
第2代 グル・アンガド(1539年 - 1552年)
第3代 グル・アマル・ダース(1552年 - 1574年)
第4代 グル・ラーム・ダース(1574年 - 1581年)
第5代 グル・アルジュン(1581年 - 1606年)
第6代 グル・ハルゴービンド(1606年 - 1644年)
第7代 グル・ハル・ラーイ(1644年 - 1661年)
第8代 グル・ハル・クリシャン(1661年 - 1664年)
第9代 グル・テーグ・バハードゥル(1664年 - 1675年)
第10代 グル・ゴーヴィンド・シング(1675年 - 1708年)
第10代教祖の4人の息子はムガル帝国との戦争で先に死んだため、遺言により、この後は教典がグルとされた。

歴史
16世紀初め - 初代グル・ナーナクが沐浴中に啓示を受け布教開始。北インド一帯へ広がる。
1606年 - 5代目のグル・アルジュンがムガル帝国の弾圧を受け死亡。このころから迫害と共に教団組織を整備。反イスラム・反ヒンドゥー色を強める。
17世紀後半 - 10代目のグル・ゴービンド・シングが軍事的組織カールサーを結成。
19世紀初め - ランジート・シングがラホールを中心に統一国家を建国。シク教国。イギリスにも対抗。
1845-46 - 第1次シク戦争。パンジャブの東半分をイギリスに奪われる。
1848-49 - 第2次シク戦争。全パンジャブが英領になり、シク教国は滅ぶ。
1947年 - インド・パキスタン分離独立に際し、インド帰属を選択。
1984年 - 黄金寺院事件。インド政府軍がシク教徒の聖地を襲撃。
10月31日 - シク教徒の警護警官により、インディラ・ガンディー首相暗殺。
1985年 - シク教徒によるインド航空182便爆破事件起こる。